1906年(明治39)10月の日本の領事報告によれば、20世紀初頭の中国の天津を中心とした航運状況が述べられているが、汽船の登場によって大いに影響を受けてはいたが、なお帆船航運の実力が高く評価されていたことがわかる。そこで天津に隣接する山東半島沿海の航運事情について現地調査及び青島の梢案館や博物館において現地調査を行った。 山東における中国帆船の航運状況については、1942年に発表された堀内清雄の青島を中心とする調査があり、ジャンクの種類や形態、ジャンクの活動範囲、貿易額、貿易品さらに民船の航運業に関係する仲介業者である「船行」の機能や経営規模そして経営の内部形態に関していずれも20世紀前半の現地調査に基づいた報告をしている。 そこで本研究は、清代の史料を中心に山東沿海の帆船航運の状況について考察を行った。山東半島は周知の如く北は渤海、南は黄海に面して古代より海産に恵まれた地であった。とりわけ清代になるとその海産のみならず、南部の沿海地域には不足する穀物類を大量に産する地として注視され、それを目的とした沿海航運が活発に行われ、その物流を支えていたのが清代の帆船であった。その状況は20世紀になっても変わることなく見られたことは現在なお青島梢案館や、青島博物館に残された記録から知られる。とりわけ山東の重要な港口であった膠州は南部沿海地域との連携が重要視され、深い結びつきが20世紀になっても見られた。その証拠が寧波において発刊されていた新聞からも裏付けされるのである。
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