清代における中国帆船は17世紀以降より19世紀の後半まで東アジア海域の最も優秀な航運能力を保有する船舶であった。とりわけその中でも優れた航運能力を保有していたのが福建帆船であった。その福建帆船の活動を中心に実地調査及び文献調査によって明らかにした。 福建省は古来より耕作地が狭く、しかも人口密度が高く、土地からの収入では人々を養うことは出来ず、大半の人々が海域活動によって生活の糧を得ていたとされる。そのため多くの優秀な船員を輩出してきた。その優秀な航運能力のある福建帆船の船員として活躍していた人々に、福建近海にある金門島出身の船員がいたが、これまで看過されていた。そこで漂着船の史料を中心にその存在を明らかにした。金門島は清代においては福建省泉州府同安縣に属したが、後に金門縣とされた。その金門縣に居住する人々が船員として活動していたことを明らかにした。 また福建の泉州は古来より中国を代表する港市として知られているが、海外発展を支えて来た泉州沿海民衆の実体的姿はそれほど明らかにされてきたわけではない。そこで2008年8月に泉州海外交通史博物館の協力を得て、福建沿海の港湾において木造帆船に乗船していた船長経験者による聞き取り調査を行い、清代泉州府晋江縣の民衆がどのように海上に進出していたかについて実地調査や船員となった人々の族譜・家譜資料を調査し、祥芝、深滬などの港では木造船舶を造船し商業活動に従事し、これら泉州地域の木造帆船は台湾海峡を主たる海域としていたが、台湾からの物資を、北は黄海、渤海海域や江蘇省・漸江省へ、南は広東省方面、さらに東アジア海域にまで進出し活動していたことが族譜史料からも明らかとなった。
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