公表した成果の一部の概要をもって報告に換えたい。 王莽による漢新禅譲劇は意図的に堯舜禅譲伝説を模倣するものであった。舜の末裔としての王氏の家系の造作や西王母伝説の利用を始めとする自身の舜への同一化は、禅譲における象徴操作の中心をなしており、時期的には王莽が明確に簒奪を意識して以降になされたものと考えられる。禅譲の儀礼の構造は堯舜禅譲への重ね合わせという表象が強調されることによって、一般的にはそこに注目が集まるが、帝権の委譲はあくまでも皇帝璽綬の伝達にあったことは、史料を精査すれば推定できる。換言すれば、堯舜伝説に仮託した王莽の舜への自己同一化は、それを正当化するための象徴操作・演出であった。その意味では、漢新禅譲は何らかの確たる普遍的様式を備えた「禅譲儀礼」を案出したとは言い難い。 王莽がその受命の象徴として利用した符命・瑞祥・予言は、漢魏禅譲の際にも易姓革命の中心的象徴となっていることは重要ではあるが、しかし漢魏禅譲においても即位式の核心は璽綬伝達儀礼であった。つまるところ禅譲革命においても「即位儀式」自体は王朝内継承と相違は認められないのであり、それを包含した一連の「禅譲儀礼(天命移行の表象)」が王朝の交替、言い換えれば天命の移行を象徴する、という構造に概括できる。かかるパッケージ化した漢魏禅譲の手続きが形式化された「易姓革命の儀礼」となり、その際の儀礼が反復模倣されてゆくのは、つまりところ漢魏交替の前例が、典拠として権威を獲得してしまったからに他ならない。やや結果論ではあるけれども、その意味で王莽の禅譲劇は、堯舜禅譲の模倣的同化に執着するあまり、禅譲儀礼パッケージの典拠性を確立するには、構造的・論理的に未成熟な段階にあったと言い得る。
|