皇帝権の空白を極小化する措置として、北朝・隋唐以降には皇太子監国(皇太子による国事代行)・内禅(生前の皇帝位の譲位)が出現する。いずれも秦漢魏晋時代に前例のない事象である。両者の出現は時期的に重なり合うだけでなく、唐代には監国をへて内禅によって即位した例が少なくない。 皇太子監国は五胡十六国時代から散発的に見られるが、内禅は唐以前には北魏1例、北斉2例、北周1例のみである。さらにこの時期の内禅は、譲位の後も太上皇帝として至上権を保持した3例があり、この場合、実質的には帝位継承権者による監国の恒常化とも見なし得る。唐代では内禅は4例(中宗を数えれば5例)であるがいずれも政治的な非常事態によって生じている。特異かつ特徴的なケースとして睿宗-玄宗の場合には、〔皇帝-皇太子監国<六品以下の叙任>〕→〔太上皇帝-皇帝<三品以下の叙任>〕→〔太上皇-皇帝<全権>〕という段階を経て内禅が完結したことを諸史料から復元できる。 史料解読を積み重ねることで、大要、次の諸点を明確にできた。(1)唐代では初期から皇太子の地位安定のため頻繁な監国が行われ、後半には即位直前の皇太子監国の詔が帝位継承に必須の手続きとして組み込まれていった。(2)それは本義的には皇帝権執行権限の空白の予防措置の儀礼化である。(3)内禅はあくまで「皇帝位」を問題としており、その際、至上権を前帝が保持するケースには「太上皇帝」を称する。即位儀礼の核心が璽・冊の伝達にあることは通常の即位儀礼と同様である。皇帝権を分有するかの如き特殊事例(太上皇帝-皇帝のケース)でも「天子」の権能は問題・議論対象とはされない。中国古代皇帝権の特質として、祭祀権と政治権とは不可分的一体性を保持していたことを示唆する。これは「皇帝位」と「天子位」との二重即位説を否定する傍証でもある。
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