12世紀後半の神聖ローマ帝国における2大家門、シュタウフェン家とウェルフェン家、とりわけ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)とハインリヒ獅子公の間の政治的紛争の展開とその収拾の試みについて、ほぼ同時代の年代記、証書、書簡などの史料を精査しつつ考察した。そしてハインリヒ・ミッタイスなど法制史、国制史家が「政治的訴訟」の概念により公的な裁判手続きによる断罪という近代の司法機能にひきつけた解釈を示したのに対し、その都度、皇帝が粘り強く交渉を呼びかけ、妥協と和解により皇帝と諸侯の密な関係を回復・維持しようとしたことを明らかにした。当時の皇帝権力と帝国諸侯の宮廷を中心とするコミュニケーションに依存した政治秩序は、なお公権力の一方的な発動による紛争処理と平和維持は現実的ではなかった。規範史料ではなく、主として叙述史料(年代記など)を用いて、このような宮廷内外における制度外のインフォーマルなコミュニケーションを認識することにより、中世盛期の政治秩序と国家の新しい解釈が可能となろう。 今ひとつの成果として、ヨーロッパ・山岳地方(アルプス)の農民たちの間の入会地を巡る紛争とその解決を、未刊行文書をも用いて考察した。そして各渓谷共同体の内部での農民たちの間の自律的な交渉による紛争解決の経験の繰り返しが、領邦ティロルでは農民の領邦議会参加、領邦改革の要求、参加などのアクティヴな政治的、国家的な機能を担保することになったのである。この成果は紛争・紛争解決と秩序の相互関係という本研究計画をつらぬく構想に貢献するものである。
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