今年度はAmerican School of Classical Studies at Athensにおける文献収集・論文のドキュメンテイション、並びにキュテラ島とカルキディケ半島の現地踏査を踏まえて、(1)キュテラのペリオイコイ共同体の歴史的変遷を検討し、また(2)ペリオイコイの軍事的役割について考察し、最後に(3)ラケダイモン人の国家構造について考察した。(1)については論文「キュテラとキュテロディケス」として公表した。キュテラは前7世紀以降、前6世紀の間にラコニア領に併合され、キュテラの住民はペリオイコイとして身分規定され、その際、併合時期の遅さ、戦略上の重要性のゆえに、またキュテラの本来の住民と新住民の関係が平穏に一体化することを狙ってスパルタはキュテロディケスと呼ばれる役人を毎年派遣した。さらにまた、キュテラにはラケダイモン人の駐留部隊が常駐した可能性も考えられる。キュテラの新旧住民の安寧の維持と共に、住民と駐留部隊の間の紛争解決もキュテロディケスの任務であったのだろう。(2)については、スパルタ軍は、人的比率ではペリオイコイに大きく依拠するようになりながら、その本質において、スパルティアタイ軍であり続け、ペリオイコイは軍事的貢献を梃子に、名実ともにラケダイモニオイとして、スパルタの政治機構に参与して、一体的ラケダイモン国家を作り出す道はなかったと、結論した。(3)については、以下のように論じた。スパルタがラコニアに勢力を拡大していったときに、スパルタがラケダイモニオイ意識を梃子にスパルタ周辺のポリスや集落をペリオイコイとして位置づけた。そしてスパルタを中心とする垂直的構造を作り上げて行く過程において、平行して多中心的な地域構造が形成されていったと考えて、あながち大きな誤りではないだろう。ペリオイコイ集落はスパルタの勢力下に緩く統合され、自治を持つ共同体として取り扱われながら、1つの大中心スパルタを核に1つのヒエラルキー的地域統合を形成するに至ったのであろう。それは、スパルティアタイが外交・軍事の決定権を握るラケダイモン人の国家が立ち現れたということであろう。
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