東フランク・"ドイツ"王国を構成する4つの主要な大集団(フランク人、ザクセン人、バイエルン人、シュヴァーベン人。史料では通常gensと総称される)は、旧来の通説によって"ドイツ人"なる民族の下位集団である"部族"として理解されてきた。しかし、こうした19世紀に構築された概念装置とその背後に潜む大前提-「国家」に対する「民族」の先行・規定性-は、修正を要する。古代末期・中世初期の「エトノス生成論」(ヴェンスクス)のモデルを、ヴェルナーの「諸分国構造論」と統合するならば、次の見取り図が描ける。民族移動から土地占取を経て国家形成へと向かう経過において、新たに形成されたポリエスニックな政治的団体としてのgentesの多くは、その後、カロリング大帝国の支配下に編入された。それは、帝国の行政上の単位としての「分国」を枠組みする政治的な「再ゲンス化」のプロセスを通じて、さらに大きく変質を遂げ、このうち東フランク王国を構成する複数のgentesから「ドイツ人」が二次的に形成されていったのである。
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