平成21年度は、これまでの研究成果を整理することにあてた。その概要は以下の通りである。 今回、和田晴吾の「棺」の定義を参考にしつつ研究を進めた結果、「棺」を「埋葬施設内で屍身を保護し、その他の構造物や副葬品を安置する空間を区分する構造物」と再定義した。この定義により検討した結果、原三国時代において「木槨墓」と定義される大同江流域・錦江流域・洛東江流域の墳墓で用いられた「棺」は、いずれも「据えつける棺」ではあるものの、「棺」の構造および規模や、木槨内の数などにおいて互いに異なることを明らかにした。 三国時代にはいると、高句麗・百済・新羅や加耶諸国の一部において、「王墓」と呼びうる大型墳墓が登場する。しかし、同様の墓制は王都周辺の限られた地域・集団にのみ採用された。それ以外の地域では、木槨墓から石槨墓への変化がすすみ、さらに地域によっては横穴系の「室墓」も出現するが、具体的な変化過程や墓室の構造には多様性がみられる。「棺」においては、釘や鎹を用いて組み立てられた例が各地で認められるようになる。その構造と釘・鎹の使用方法が復元できる例は決して多くはないが、いずれも基本的に「据えつける棺」であり、釘・鎹は大型の「棺」に用いられる傾向がみられる。また、槨・室の構造が変化しても、「棺」の基本的な構造や機能は変化しないことが指摘できた。 6世紀に入り、横穴系埋葬施設が各地域の王墓級墳墓に採用され、それが周辺地域に墳墓に広く採用される段階になると、「棺」の構造・機能も大きく変化する。高句麗や百済では、釘と鐶座金具を用いた「持ちはこぶ棺」が採用され、加耶諸国にもその影響が及ぶ。一方、新羅では「開かれた棺」が採用され、石枕・足台などが発達する。このような新たな「棺」の採用においても、それ以前の「棺」の伝統が影響していると推測することができた。
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