7世紀の初頭、斑鳩の地に仏教寺院が建立された。若草伽藍である。601年に斑鳩宮が営まれたそのことが寺院造営の契機になったのである。その創建の時期は、607年を降らないことが確認されている。しかし、この時建立された若草伽藍は670年に焼亡した。若草伽藍の発掘調査では金堂、塔の掘込基壇、そして寺域を画する西と北の掘立柱柵が確認されたに過ぎない。しかし、それらの遺構から堂塔の姿をある程度復元することができる。その手段は、大量に出土する軒瓦類を検証することによる。たとえば、鴟尾や小形の鬼瓦の出土により、金堂の屋根が入母屋造りで、しかも降り棟が伴っていたことが分かる。また、創建時にすでに軒平瓦が使用されており、堂塔の軒先が軒丸瓦と軒平瓦とで飾られていたことも明らかになった。これは、東アジア世界で最も早い事例であり、斑鳩の文化が特異なものであったことが知られる。 若草伽藍出土の軒瓦は15種類を超える。それらのうちいくつかの種類は、周辺地域の寺院でも使われている。詳細に検討すると、若草伽藍所用軒瓦の要素をもったものが斑鳩を遠く離れた地域にも見受けられる。このことは、斑鳩地域における初期の寺院造営技術が次第に各地に広がっていったことを示している。すなわち、斑鳩文化圏の広がりなのである。また、若草伽藍所用軒瓦に見られる要素の中には、明らかに朝鮮半島から影響を受けたものが見受けられる。 斑鳩における中心的な存在である若草伽藍の要素が多様であることが、軒瓦を通じて明らかにできるのである。 以上、平成18年度に行なった概要である。平成19年度には、10月までに成果をまとめる予定である。
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