古代、とりわけ7世紀前において、大和を中心として寺院造営事業が進められていった斑鳩の地に営まれた創建法隆寺(若草伽藍)に関しては、発掘調査によって造営技術の中に、飛鳥のみならず朝鮮半島など複数の地域の要素が含まれていることが明らかになっている。そしてその技術は、斑鳩の地を越えて大和川対岸にまで及んでいる。それは片岡王寺や長林寺の軒丸瓦の瓦当文様にあらわれている。また、上宮王家建立の四天王寺の軒丸瓦に若草伽藍との同范品h\が使われているということ、むしろ上宮王家が摂津難波津に近い位置に四天王寺を建立したことは、この地もまた斑鳩文化圏に含まれることになる。そして若草伽藍に見られる複数の要素の中には、朝鮮半島の要素、特に古新羅の要素が濃厚に見られるのである。 このことは、聖徳太子の外交政策の現れということができるのである。太子が斑鳩に拠点を置くようになった推古天皇13年(605)以降の新羅との関係は、それ以前とは全く異なった形であり、新羅使の渡来が頻繁となる。太子は新羅仏教に強い関心を抱いていたものと考えられる。新羅仏教はいわば国家仏教である。中国大陸に隋という強国が成立したこともその背景にあったろう。太子の強い意味で対新羅外交が進められていたのである。 以上のように、若草伽藍に見られる要素の広がりは、聖徳太子による政策の結果なのであり、新たな国家体制を創り上げていこうとする意気込みのあらわれなのである。
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