研究概要 |
本調査に対する台湾政府外交部・内政部の見解に基づき.該当する県市政府・区鎮公所をそれぞれ個別に訪お,交渉を繰り返えしたところ,基隆市中正区及び蘇澳鎮の戸政事務所,基隆市・羅束県の地政事務所では希望する日拠時代の行政文書の開示・閲覧に応じて戴けたが,花蓮県・同市,台東県・成功鎮では希望は適えられなかった。従って,本報告は,漸った行政機関から得られた行政資料と,現地関係者等の聴き取り内容とに基づくものである事を前以って判っておかねばならない。先ず,官営移民の形態をとった蘇澳鎮南方澳の日本人(内地人)漁民集落と比べると,基隆市中正区の外港・漁港の縁辺に展開していた自由移民の形態をとった漁民集落(旧入船・浜・社宗の三町界隈,現中正・正浜・和一の3路界隈)は.細かく見ると,内地人・琉球人・本島人(漠族)・朝鮮人の樓み分けが認められるが,基本的には原住民族(旧高砂族)を含めたら民族の混住であった。次に漁業との関りであるが,南方澳では蘇澳漁業の振興の中核に官営移民による個人経営漁業者の育成を目途としていたのた対し,基隆外港・漁港周縁に定着した自由移民は,大正4年頃までに進出した内地の大手水産会社(大日本漁業ほか)並びに現地台湾で創業をみた内地人経営者による水産会社(蓬莱水産ほか)などた主に漁業労働者として雇われていた(もらろん,新しい漁場を求めて,漁船を伴って挙家移住してこた内地人.琉球人の個人経営漁業者も相当数いるが,少数派である)。それ故,基隆市ではこれら被傭者への住宅供給問題が緊要化し,市営漁民住宅が建設これ,内地人・朝鮮人が,その居住者の大半であったが,少数ではあるが.本島人の個人経営漁業はかまの入居も認められた。
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