本年度も、史料収集を中心に現地調査をおこなった。収集した史料は、泉家(大田市仁摩町宅野)のものである。泉家は宅野浦の廻船商人であり、その史料群からは、石見国内の製鉄業者からの鉄集荷、日本海海運を利用した石見産鉄の他国への出荷の状況などに関する情報を得ることができた。同家は、米、鉄、青苧など、石見・出雲地域の生産物を自家の廻船に載せて、主に大坂や尾道で販売し、返り荷に瀬戸内産の塩や大麦等を買い入れて山陰地域において販売するという商売を営んでいた。史料の多くは断片的なもので、定量的な分析には適さないと考えられるが、売仕切状や買仕切状に添えられた書状類などから、他地域の商人との具体的な取引の実態について知ることができた。鉄については、石見国内のみでなく、奥出雲地域で生産され、杵築町の藤間家によって宇竜港(現出雲市)へ集荷されたものを買い入れる例が数例みられた。杵築町の藤間家は、宅野浦の藤間家の本家筋の家であり、江戸初期に宅野浦と佐渡へ進出したという伝承を持つ。江戸中期以降も杵築藤間家を通じて、石見国内の商人が出雲産の鉄を集荷していたことは、近世の宅野浦の成立の要因のひとつに、石見銀山で用いる鉄の集荷があったという説を補強するものであると考えられる。なお、宅野浦の泉家や藤間家以外にも、大浦や温泉津、さらに出雲国口田儀町など日本海沿岸の町的集落にも、鉄の集荷を行う商人があった。こうしたことから、石見銀山盛期には、銀山向けの鉄を集荷する機能をもたされていた商人とその根拠地が、銀山の衰退後には、日本海海運を利用した全国的な鉄流通の一端を担うことになったことが推測できるが、これを裏付けることは今後の課題である。
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