日本資本主義の生成期において、動産担保(とりわけ集合動産譲渡担保)が果たしてきた役割を分析する。 その前提として、まず最初に、明治初期における製糸業の展開過程を考察する。すなわち、明治維新後、新政府は、外貨獲得と華士族授産の必要から、直ちに殖産興業政策を採った。特に生糸貿易に着目した新政府は、国家資金を投与して官営工場を設立したが、それは失敗に終わり、工場は払い下げられて、製糸業は民間主導となった。こうした明治初期の産業史を鳥瞰した上で、日本資本主義の創生期における製糸貿易の重要性を、データを踏まえて明らかにする。 次に、製糸業には資金調達が必要である。特に、殖産興業政策が挫折して以降、どのようにして資金調達がなされてきたか、である。この点、当初、国内の輸出商が資金を提供し、次いで、生糸売込問屋が主役的地位を演じることとなったが、これと平行して、あるいは、生糸売込問屋の衰退に伴い、地方銀行が資金提供を行うこととなった。そして、問屋金融であれ銀行金融であれ、そこでの担保物は、必ずしも不動産や株式に限られず、むしろ、繭や生糸という動産こそが重要であった。それ故、こうした繭担保ないし生糸担保という動産担保の実情を、データを示しながら検証する。 最後に、繭担保ないし生糸担保の取引は、法的に見ると、どのような担保形態をなしていたかに関して、である。民法が施行された明治31年の前後を通し、そこでは、譲渡質ないし譲渡担保の形態であったのではないかとの予測の下に、これを実証的に考察することになる。
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