今年度は、明治23年立憲政治が本格的に開始され、明治33年の立憲政友会が結成される時期における伊藤の政治指導を分析の対象とした。とりわけ、明治31年の伊藤新党問題を取り上げ、伊藤の政治指導によって、藩閥政府が分裂し、政党(政友会)と官僚(山県閥)に権力集団が分岐していく政治過程を検討した。当初の研究計画では、その前提にドイツにあるシュタイン文書を調査する予定であったが、日程の関係で次年度に回し、国会図書館などに所蔵されている一次資料とりわけ伊藤書簡と新聞などを活用して、藩閥体制や官僚制の分析を進めた。明治31年の伊藤新党問題とは、日清戦争後、軍拡を中心とする「戦後経営」を実現するため地租増徴が避けられなくなったことに由来する。しかし有権者の圧倒的多数を占める地主を直撃する増税は、政党の反発を誘発し、第三次伊藤内閣が提出した地租増徴法案は衆議院で圧倒的多数で否決される。そこで、伊藤は、この政治的隆路を打開するために、新党の結成を構想する。当初は、山県ら他の元老たちも伊藤の新党結成に好意的であったが、自由党と進歩党が合同して憲政党という巨大政党が誕生し、他方で中堅官僚層からの突き上げが始まると、山県らは態度を一変し、新党反対の包囲網を形成し始める。追い込まれた伊藤は、土壇場になって、新党結成を断念すると同時に、強引に政権を政党に譲る決断を迫り、伊藤の政府内での孤立と引き換えに、初めて政党内閣が組織されることになった。この決断は、在野を熱狂に巻き込み、政党を権力要素と認知する新しい政治空間を生み出すことに貢献したが、その背景には、伊藤新党問題がすでに在野を含む政界全体の関心事になっており、伊藤新党の挫折は、伊藤自身の政治生命のみならず、政党を含む在野の「政治」に対する希望を失わせ、「政治」の公正さに対する信頼を揺るがせかねないという伊藤の判断があったことを明らかにした。
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