今年度は、前年以来取り組んできた明治31年の伊藤新党問題についての考察を深め論文として公表した。その骨子は次の通りである。日清戦争後の流動化する東アジアの国際情勢に対応して、明治政府は軍拡を中心とする戦後経営を計画するが、それを実現するには政党の協力が不可欠であった。しかし、支持母体である地主層を直撃する地租増徴は政党の忌避するところであり、政府はその対応に苦慮する。その際、伊藤博文と山県有朋という藩閥政府を代表する二人の政治家は対照的な対応をとる。すなわち山県は政党を政権から排除する従来の藩閥政府の方式を守ろうとするが、伊藤はその山県とは一線を画し、まず新党結成を試み、それに挫折すると今度は政党への政権譲渡を強引に実現していった。そうした伊藤の行動の背後には、藩閥政府を維持するという党派性よりも、行き詰まった立憲「政治」の蘇生を優先する伊藤の「政治」に対する強い思いがあった。そしてそれは、政党の立憲「政治」へのコミットを強めただけでなく、激しい権力闘争の最中に党派的ではない政治行為を存在しうることを示すものでもあった。つづいて、伊藤のそのような「政治」に対する考え方がどこに由来するのかについて考察を進めた。現段階では、仮説に留まるが、伊藤が若き日、米国に遊学した際、『フェデラリスト』を紹介されて熟読し、マジソンらアメリカ建国の父祖たちの党派性を克服するための政治的格闘に知的インスピレーションを触発され、『フェデラリスト』が伊藤の「政治」を考える際の知的源泉となったことが大きいのではないかと考えている。さらにそうした伊藤の「政治」に対する基本的な姿勢は、政友会の結成の際にも貫かれ、伊藤にとっての政友会結成は、政党内閣を実現して政党の権力を拡大するためではなく、文字通り、過度な党派性から立憲「政治」を救い出し発展させるための政党改良だったことを明らかにした。
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