ニュー・カレドニア地方選挙(2009年5月10目)では、あらためて、中央行政が南太平洋植民地社会の複数の政治的要求に応える責任を帯びること、共和国の一部としての脱植民地化模索が継続されることが示された。ところで、どのようにして、共和国における非ヨーロッパ系住民の存在をめぐり、社会の「多様性」が前提された政治文化への転換とこれを目指す具体的な公的政策を求める声が正当性を持つようになり、植民地主義の過去がフランス共和主義の変容を迫ることとなったのか。「フランス海外領土政策にみる共和主義の変容」2008年度の研究成果は、これらの課題に直結する転機として、1983-1984年の歴史的意義の一端を明らかにした。 研究では、第一に、海外領ニュー・カレドニアとポリネシアへの地位を準備した1984年自治制度とその整備過程をニュー・カレドニア独立問題をめぐる最初のアクター間対話の機会となった円卓会議(1983年7月)とその後の経緯との関わりから明らかにした。1982-1984年11月までの公的政策に注目するフランス領独立問題に関する先行研究はほとんどない。本研究成果を、紛争調停開始20周年を記念して研究者及び中央政府・独立派・反独立派各アクターを招いて実施された討論会(2008年4月25-26日、パリ)で報告したところ、第二の成果として、報告へのリアクション発言などを通じて、円卓会議の意義と、これが中央行政にとって独立問題の出発点となっていたことが初めて明らかになった(ニュー・カレドニア調査(2008年8月実施)で当時の関係者と未公開公文書による確認の上、討論会の議事録は出版された(2009年3月))。パリ調査(2009年3月)では、1989年以降、南太平洋領と周辺地域関係をフランス外交として築く方向へと転じたことが共和主義変容の背景となっている点が明らかになった(学会報告(SICRI-Small Island Cultures Research Initiative、2009年6月25-27日)を予定)。
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