ナチス金融システムは、政策面を考慮して三つの時期に区分される。第1期の1930年代前半にはライヒスバンク総裁シャハトが金融システム安定化・景気拡大を主目的としてシステムを構築し、第2期の1930年代後半になると4カ年計画開始とともにシャハトとゲーリングが対抗し、しだいに軍需部門が先行する。そして1939年以降の第3期には、ライヒスバンク総裁がフンクに交代し新たなライヒスバンク法が制定され、第二次大戦開始とともに戦時金融システムへと突入する。これらの時期を通じて、ライヒスバンクとライヒ経済省による資本市場政策が、またその政策執行手段として貯蓄銀行が重要な役割を演じた。貯蓄銀行の役割とは、第一に長期安定的な貯蓄預金の蒐集、第二に貯蓄銀行自体の安定性を確保した上で、その資金を地方での資金需要だけでなく、中央政府・軍部の資金需要に充てることである。貯蓄銀行は地方自治体と密接な関係を持っていたから、中央政府は自治体の強制的同質化によってそれを容易にコントロールできたのである。そうした政策実施過程において、1935年の2度の長期ライヒ国債発行はそれまでの短期債務を負担の軽い長期債務に転換するために、金融システムにとって重要な意義を持っていた。その国債10億RMは貯蓄銀行に売却されたのであるが、個別貯蓄銀行の購入状況をみてみる、一部の貯蓄銀行(北部や西部ドイツ)は十分な資金があるにもかかわらず国債を購入しなかったり、また中部・南部・西南ドイツ、さらにベルリンの貯蓄銀行は地域内での資金需要充足を優先していたのである。本研究で分析した、西南ドイツ(ヴュルテンベルク)地方政府は、中央政府のシステムとは別の地域金融システムを構想・追及し、そこで貯蓄銀行が中心的役割を果たしていた。しかしこうしたあり方は第二期にしだいに変化し、中央システムが優位となった。第二期以降の展開は、次年度以降の課題である。
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