第1次世界大戦期、アラビア半島で国家の萌芽が形成されつつあった。この萌芽的国家はその資金的中核としての「銀行」を必要としていた。そのような「銀行」としてゲラトリー・ハンキー商会やコワスジー・ディンショー名が取りざたされていた。イギリス外務省はこの問題を「この上なく重要」と認識していた。 結局、既存の帝国オスマン銀行ジッダ支店が閉鎖されゲラトリー・バンキー商会がそれを引き継ぐこととなった。この頃から、構想されていた新銀行が史料で「国立銀行(state bank)」-ビジャーズ国立銀行-と呼ばれるようになる。 このヒジャーズ国立銀行設立の問題は、ゲラトリー・ハンキー商会による帝国オスマン銀行引き継ぎの問題と密接に関わっていた。 結局、ヒジャーズ国立銀行設立問題は立ち消えになってしまう。これは、当時、サイクス・ピコ協定という懸案があり、その解決が優先されたからであった。 同じ頃、アラブ政府は金貨輸出をゲラトリー・ハンキー商会ジッダ代理店に集中させた。同社は、インド、アデン、それにスーダンなどでも同様のことを行なおうとしていた。 ヒジャーズでは、金のみならず銀も不足していた。通貨全般が不足していたのである。そして通貨のみならず、食糧も不足していた。北部諸部族へとばら撒かれた10万ポンドは底をつきつつあった。
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