ヴェーバー、ラートゲン、ゾンバルト、ゴートハインらは、ドイツの社会経済発展の特質とその方向性について、精力的な研究をすすめており、とりわけドイツにおける国民経済発展史を世界史的視野から解明することをめざしていた。なかでもラートゲンは、日本・中国などの東アジアとの経済交流がドイツにもたらす効果を見きわめようとしていた。 本研究では、これらの経済学者たちの業績と足跡とを整合的に理解するため、未公刊史料を使って、大学を舞台としたこの四人の交流・交渉を跡づけ、独日社会経済発展研究史を探究するための予備的研究をすすめた。この四人のうち、ヴェーバーは、アルトホフ体制下の偶発事の綾から、非常に若くして正教授の座に就くことができたが、他の三人は比較的不遇時代が長かった。ゾンバルトは、プロイセンの文部官僚アルトホフとの折り合いが悪く、またアルトホフは、ゾンバルトの気質およびその社会主義への親近性を毛嫌いしていた。一方、ラートゲンは、アルトホフと非常に親しかったが、マールブルク大学における反シュモラー・反アルトホフ派によるある種の嫌がらせを受け、ハイデルベルク大学への脱出を図っていた。ゴートハインは、当初アルトホフの引きでボン大学にポストを得たが、やがて大学運営をめぐってアルトホフと対立するようになり、そのためハイデルベルク大学への移籍を希望するようになった。そしてすでにハイデルベルク大学正教授になっていたヴェーバーは、なんとかしてゾンバルトを招聰しようと尽力したが、アルトホフおよびアルトホフの意向を受けたバーデン文部省の意向によって阻まれた。そしてラートゲンは、着任したハイデルベルクにおいて、ヴェーバーとの一定の緊張関係のなかで協力協働するようになった。こうした人間模様は、おそらく、彼らの相互関係・知的交流を今度理解するうえで重要な手がかりになるだろう。
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