研究概要 |
本研究の目的は,近世諸藩の弓術教育が組織化される過程において業績主義がいかに投影されたかを考察することであった。 近世弓術教導のダイナミズムを明らかにする視点として,江戸や京都などの大都市を中心とした人的交流の検証を行う必要があると考え,江戸や京都の三十三間堂で行われていた通矢を通じて展開された弓術教導のネットワークと弘前藩の弓術師範家形成との関係を明らかにしようとした。弘前藩弓術師範家の形成においては,(1)弘前藩外から高名な射手を登用し弓術師範となした段階(17世紀中葉から18世紀前半),(2)藩外から登用された移入師範の教導により弘前藩士による弓術教導の再生産が可能となった段階(18世紀中葉から後半),(3)通矢参加により,弘前藩が全国的な弓術ネットワークに接続することができるようになり通矢での成績が弓術師範任用の基準とされた段階(18世紀後半),があることを明らかにした。ここに,「通矢」での成績による業績主義的任用の事例が確認された。 また,藩学弓術教育における業績主義的傾向は「見分」と呼ばれる試験を藩学に導入したことに現れている。水戸藩学弘道館では1842年,初めて行われる文武大試の予備選考を兼ねた見分が行われ,日置流・大和流・印西派・雪荷派の藩士が参加した。弘道館での教導を認められた弓術流派の教師9人に関しては日置流3人,その他は2人とほぼ拮抗し飛び抜けて勢力を持っていた流派は認められないが,試験実施方法は大和流に依拠しているので,大和流弓術が水戸藩弓術の首座たる地位を有していたことが明らかとなった。
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