所謂征服王朝と呼ぱれる遼・金・元の宮殿については、これまで中国建築史では単に漢族の模倣と言われることが多く、異民族の建築文化の特徴を問う研究はほとん行われてきていない。本研究の研究代表者は、この研究以前にすでに元朝の宮殿について研究をしてきた。そこで、本研究ではおもに遼および金を対象とし、宮殿建築に関して、資料蒐集とその整理・解読・検討、および現地調査を実施してきた。しかし、本研究を進めるにつれ、遼、金、元は征服王朝として一括するのではなく、むしろ建築文化としては異なっていたことが重要ではないのか、との感触を得た。そこで、この三者の類似点、相違点をより明確にするために、今年度からは元も本研究に含めて検討することとした。 そして、以下のような研究発表を行った。ひとつは、国際シンポジウム「伝統中国の庭園と生活空間」(、2007年6月)での発表である。もうひとつは、論文「元朝の皇室が造営した寺院-チベット系要素と中国系要素の融合-」として『種智院大学研究紀要』第9号(2008年)に発表した。 前者の研究発表では、元朝の庭園には中国的な要素と「モンゴル」的要素とが見られることを指摘した。後者の論文では、皇室の建立した寺院は、従来チベット式だと言わることがあったが、そうではなく、むしろ、ほとんどが中国式といえるものであり、しかも伽藍に定型はなく、池を伽藍の中心に配置したり、角楼を四隅に設けるなど、中国のデザイン要素を施主の好みによって寺院に取り込んだことが特徴的である、と論証した。
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