近世都市の成立において重要な役割を果たした豊臣政権が、景観レベルにおいていかなる都市政策を展開したのかについては、二階建町家の建設や軒高の揃った町家建設を奨励したことが断片的に知られるのみで、空間や社会まで見通した総合的な知見が得られていない。本研究は近世都市に卓越する平入り志向の景観形成が、空間や社会の大規模な再編を目指した豊臣政権の都市政策の一環をなしたという仮説の論証を目指すもので、妻入り志向の町並みと平入り志向の町並みの地域分布を近世初頭さらに中世まで遡って復原的に把握し、近出の遺構資料や文献・絵画史料の再検討を通して豊臣政権の都市政策に関して再検討を加えることを通して、既往研究の成果も踏まえつつ社会から空間、さらに日常の生活世界が展開した景観までを貫く総合的な観点から、豊臣政権の都市政策の実相に迫ることを目的としている。 本年度は戦国期に遡る都市として陸奥塩竃、豊臣系の近世都市として豊後森、在地系の近世都市として肥前神浦を取り上げ、塩竃については都市空間と都市景観の形成過程を遡及的に辿り、二元的社会・空間構造を呈した中世末の都市構造から、一元的社会・空間構造を呈した近世初期の都市構造への転換過程を都市政策と関連づけつつ把握し、森と神浦については、平入り町家の遺構調査を通して、豊臣系来島氏と在地系の松浦氏による平入り志向の都市景観形成の過程について検討を加え、いずれも近世初頭より平入り志向の景観形成が成立したが、神浦では都市政策に加えて立地条件が平入り志向の景観形成を促したことを確認した。一方、平入り志向の卓越する豊臣系大名の支配地域における妻入り町家の分布状況については、細川氏支配下の丹波・丹後、肥前・肥後、毛利・福島氏支配下の長門・安芸を中心に現地調査を行い、在方に妻入り志向の町家が残存することを確認した。
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