本研究は、18世紀後半から19世紀後半という約1世紀、「長い18世紀」の射程をさらに広めて、大英帝国の様々な植民地活動が進みつつあった時期に、ヨーロッパのはるかかなたに位置し文明に汚されていない無垢の楽園として紹介された地域が、ヨーロッパ的なメンタリティの中でどのように表象されていったかを検証するものである。19世紀半ばから頻出する廃墟のロンドンを訪れる南半球からの来訪者というイメージは、従来のユートピア思想の中では捉えきれていないものである。また、国民国家的な枠組みの歴史研究、文学研究でも捉えきれていなかったものである。本研究では、19世紀イギリスの植民地政策がユートピア思想と連動して南半球に第二のユートピアを作ろうとした過程で生じた様々な軋轢を、イギリス本国だけでなく、オーストラリア、ニュージーランドなどの植民地の側からも考察することで、南半球の植民地の存在が18世紀的進歩思想の転換点となったことを明らかにしようとするものである。 19年度は、マコーレーのニュージーランド人のイメージが普及する以前の18世紀後半から19世紀前半にかけて、ロンドンを訪れる異邦の旅人のイメージがどのように変化したかを検証し、イギリスでは、ウォルポール、バーボルド、シェリーなど研究が進んでいる作家、詩人以外に、ヘンリー・カーク・ホワイトの作品に見られるイメージ、またマッシイ大学の資料を用いて、カーク・ホワイトがニュージーランドでどのように論じられたかを新たに考察した。大英帝国が初めてシステマティックな植民地活動を展開したニュージーランドで、特にギボン・ウェークフィールド政策の立案に関わった初期の政策において、ニュージーランドのイメージがいかに新しいユートピア観と結びついていたか調査し、従来の、経済思想史の中で論じられる枠組みを超え、ユートピアのイメージの変遷を中心に広い文化的コンテクストの中でニュージーランドのイメージを再考察した。
|