本研究の目的は、19世紀ドイツにおけるサッカークラブの形成過程について明らかにすることである。近代ドイツにおけるサッカーの受容は、学校のクラブを中心に開始され、その後、地域のクラブへと拡大していくが、その過程において、自国文化であるドイツ体操とイギリス文化としてのスポーツのあいだで激しい抗争が展開されている。平成20年度においては、ドイツ体操とスポーツの抗争のなかで、スポーツクラブが形成される過程について分析した。 ブラオンシュヴァイクのギムナジウムで展開されたスポーツ運動(サッカー中心)は、セダン祭(地域的な祭りでありながら、ドイツ国家を称揚する祝祭)と融合することで大きな社会的なインパクトを獲得する。その一方で、19世紀後半のスポーツは、大衆社会の登場を背景に発達しつつあった商業雑誌に大々的に取り上げられることで、ドイツ体操を凌駕するほどの普及をみせるようになる。さらに、国際オリンピック大会の開催がスポーツの普及を後押しする。ドイツ体操連盟は、ドイツ体操を中心とする国民オリンピックを企図するが、ジャーナリズムや商業主義とうまく折り合うことができず、結局は、スポーツの波へとのみ込まれていく。こうしてサッカークラブを始めとするスポーツクラブは、トゥルネンの組織を基盤としながら大きく発展することになったのである。今後は、スポーツが二度にわたる大戦のなかで、一方では国家の政策に翻弄されながらも、他方ではそうした国家政策に利用されることで「総合型地域スポーツクラブ」の組織的基盤を固めていくことになる、20世紀前半の経緯を分析することである。
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