平成18年度の中心的課題は、現在まで継続してきたW.ジェイムズにおける「経験」の概念をまとめ、その物でも心でもなく、私でも他者でもない存在論的な中立性を、意識内在領域に対する外界領域という問題の解決方法として応用させて行くことであった。それは私や内部領域という考え方が生じる根拠の方を問い直し、そこに「経験」概念の新たな可能性を開く試みである。 ジェイムズ的な「経験」の特徴は、原初的にこの「経験」があって、副次的に主観と客観が生じたという順序をとる所にある。それに対してイギリス経験論的な考えでは、観念と観念の原因としての外部を最初に区別する。これは内在領域に第一の実在性を認める立場であり、それは「我考う」を原初的な明証領域としてアプリオリに区画づけたことに由来する。この結果、観念ならざる外部は不可知とされ、さらには存在しない領域と見なされるに到る。例えばバークリのように知覚されない領域の非存在を説く立場も、内部と外部とをまず明確に区別し、その上で内部のみに実在性を局在させたために生じている。それに対して「経験」を原初とする立場では、内部と外部、明証と不可知という区分がアプリオリには成立しない。つまりこれらの区別とは、私たちによって便宜的に設けられた枠による産物なのであり、従ってこの区別から生じる問題も、事物の側にあるのではなく私たちの認識手段の側にあるということになる。 この枠以前の「経験」からすれば、外部は存在しないのではなく、内部と外部、そして存在と非存在という区別までもが、原初的には成り立たないのである。さらにこのとき、世界とは区別された認識主観は存在しない。世界を機械論的に見る立場も、その世界を認識する主観の問題は無視している。それに対して「経験」の立場は、心を明確な語り得る存在とするのでもなく、反対に物を第一義として心の実在根拠剥奪もしない、中立的な実在論の立場となる。
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