平成19年度以前でイギリス経験論的な観念説に対比させて、ジェイムズ的な純粋経験の特色を探求したが、20年度ではこうした観念や経験というそれぞれの根本概念の根拠について考察した。これはイギリス経験論が、観念の存在や外界の存在を無条件に与えられたものとして扱っていることへの反省を含み、哲学的な世界観が持つ根本的な前提の問題を扱うものである。実際、ロックやヒュームでは外界の実在性は当然のものとされていてそれ以上は問われないという形をとるのに対して、バークリでは意識の存在が第一の実在性を持っていることからしても、何がアプリオリとされるかは哲学的なスタンスの違いによって正反対にまで異なってくることが理解できる。それ以上の根拠が問われない領域を、哲学も持つのである。 そこで20年度は哲学的な問いの出発点の問われなさという側面から、心の哲学を捉えなおした。心の唯物論的な理解は、その体系の整合性に、自らの正しさの根拠を持っている。他方ジェイムズの純粋経験も、それが彼の意識の説明体系を整合的にしていることで成り立っている。しかしそれは特定の述語によって説明が不可能なことを特徴とする。その意味で物質または心を自明の前提とする立場より、体系の外の領域の語られなさを、自らの体系の内に引き受けてしまっている。 こうした問われない根拠の構造は、ウィトゲンシュタインの根拠なき規則において、この規則に従っているという意識なく規則が成立している性質、もしくは西田の場所が、主語とはならず、それ以上の述語づけがなされない性質にも共通している。ジェイムズの純粋経験は意識論であると同時に、もはや性質づけることが不可能な論理上の限界点という側面から考察されるベきであり、この論理上の限界点は、ロック、バークリ、および唯物論的な心の哲学や、反対にデカルト的な自我論の中にも見出すことができる。本年度の最後にこの限界点の特徴を究明した。
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