今年度、申請者は当初の計画通り、Bertha M.Clayに絞り、その廉価版小説と明治の三人の文士の作品を対照した。その三人は、新聞小説作家の黒岩涙香、菊池幽芳および、英書の翻訳を手がけた末松謙澄である。 まず、発表当時から不明であった、黒岩涙香の翻訳作品「嬢一代」の原作を、Bertha M.ClayのIrene's Vowであると特定しえた。涙香は自ら創刊した『萬朝報』において主筆を務め、その翻訳作品で絶大な人気を博しているが、なかでもこの「嬢一代」は同紙創刊の初期に掲載され、話題となった中編小説である。実は涙香は、早くよりこのBertha M.Clayに注目し、「嬢一代」や「古王宮」をはじめ多くの作品を翻訳しているが、原作を特定した「嬢一代」は、日本人作家の中でもBertha M.Clayを扱った最初期の作品のひとっであり、この原作特定により、無名の原作を換骨奪胎していた手法や、登場人物名にみられる発音を一致させる斧鑿の痕が明らかになった。 次いで、末松謙澄、菊池幽芳がそれぞれ翻訳、翻案として手がけた、同じくBertha M.Clayの原作Dora Thorneをもとに、それぞれの冒頭および結末に重点をおき、考察した。実は幽芳の「乳姉妹」は、謙澄の「谷間の姫百合」と同じDora Thorneを原作としながらも、一見その共通性を感じさせえぬ巧みな改変がなされた作品である。考察の結果、「幽芳はなぜ、謙澄と同一原作を、十五年後に再び手がけたのか」という従来の研究史上の疑問に対して、幽芳が、作品を二分することによって、翻訳とは全く異なり、従来の翻案とも一線を画する、原作の一部を焦点化し、一作品へと膨らませていくという新たな手法を確立したという結論を導き出すことが出来た。
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