今年度は、前年度から引き続き『柳文抄』の追究を行うと同時に、中世禅林における柳文受容を調査した。 まず、「日本中世禅林における柳宗元受容-その過程と問題点-」(『愛媛大学教育学部紀要』第55巻、pp215〜224、平成20年10月)の中で、柳宗元の作品集が日本に流入し、禅僧がそれらを消化して抄物として整理し、自身の詩文に柳宗元に関することを詠出するまでの過程、そこに存在する問題点を指摘した。 次いで、『柳文抄』について「『柳文抄』の抄者について-国立民俗博物館蔵五山版『新刊五百家註音弁唐柳先生文集』書き入れと比較して-」(『国語国文』第七十八巻第一号、平成21年1月)の中で、国立歴史民俗博物館に所蔵される五山版『五百家本』の書き入れ者が天隠龍澤であることを実証した。 また、中世禅林を初期(鎌倉時代末期から南北朝時代末期まで)・中期(南北朝時代末期から応仁の乱頃まで)・後期(応仁の乱頃から室町時代末期まで)の三つの時期に区切り、各時期における柳宗元の受容について調査しており、「柳宗元を学んだ禅僧たち-韓愈と比較して-」(『漢籍と日本人II』『アジア遊学』116号、pp70〜79、平成20年11月号)の中で、中期以降、柳宗元が盛んに受容されたことを指摘した。その理由として、文章に法度があり韓愈よりも学びやすいため、また韓愈と違い、仏教を批判していないため、詩が韓愈よりも巧みであったためであることが分かった。 徐々に柳宗元が禅林においてどのように受容されていたのか明らかになってきている。今後は、『柳文抄』のさらなる解明、中期から後期にかけてどのように柳文受容が変化していったのか解明したいと考えている。
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