最終年度である本年度は、昨年度までの研究もふまえて、次のような知見を得ている。 1. 鎌倉期摂関家領荘園における荘官・地頭と幕府 荘園制成立期の本家-預所体制において摂関家は本家たり得る荘園領主であったが、鎌倉後期にかけての荘園では、摂関家を含めた本所を頂点とする荘園の重層的な所有体系が現れた。その本所の荘園に対して、治天の君は、直接介入するのではなく、本所との交渉を通じて自身の裁許を本所に実現させる方法をとっていたが、鎌倉幕府も摂関家領荘園内部の問題に介入する場合には、本所の存在を前提として行っていたと考えられる。そのことは、近衛家領尾張国堀尾荘と長岡荘の境相論(堀尾荘の地頭が長岡荘の雑掌や地頭と対立する)における幕府の対応などからうかがえる。摂関家領も、幕府の影響力伸張につながる事象(地頭の押妨、御家人と号する荘官の存在など)と無縁で存在し得たわけではないが、荘官・地頭の所領が摂関家領から分離するにはまだ制約も大きかったといえる。 2. 建武・南北朝・室町期の本所と武家領 建武政権は、摂関家などの本所を保護の対象とし(但し一宮の本所を除く)、室町幕府法においても、武士による「本所領」の押領などは禁じられた。その一方で、内乱における地頭職・荘官職所有者の変動や半済の実施などを経て、摂関家領荘園のなかにも本所の存在が見えなくなった場所が目立つようになる。こうした荘園のなかには、事実上武家領化したものも少なくないと考えられる。室町期の史料上に本所が現れる近衛家領山城国革嶋南荘では、下司職と地頭職を有する革嶋氏が当該期にも本所への年貢納入を行っている。荘園の職を有する在地の武士に年貢等の運上を請け負わせることは、中世後期において収取体系を維持するために本所がとり得る手段の一つであったと考えられる。
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