明治8年、文部省より内務省に対して衛生事務の移管がなされた。その際、初代衛生局長(当初第7局)を務めたのが長与専斎であった。一方、明治の極めて早い時期より『虎列刺論』等を著し、陸軍の軍医であり同時に中央衛生会の委員として、近代日本における内務省衛生行政の形成過程に関わりをもった一人として知られるのが石黒忠悳である。両者の衛生行政への関わりを整理する中で次第に以下の視点が明らかになる。 明治7年に医制が制定され、翌年の6月に衛生事務に関しては内務省に移管された。以後、同省衛生局を中心に日本衛生行政は推進されることになる。しかし、明治10年より始まるコレラ対策の中で、次第に中央衛生会、地方衛生会等の組織が形成され、警察及び府県組織のなかには衛生課等の組織が整備された。そして明治16年には大日本私立衛生会も設立され、住民に対する啓蒙活動が推し進められることになる。その間、衛生委員、医師、地方長官の連携の仕組みも制度化される。これらは衛生行政組織の形成過程として整理することが可能である。一方、明治維新以降、明治10年より始まるコレラ対策に関しては、虎列刺病予防法心得に始まり、虎列刺病予防仮規則を経て伝染病予防規則への繋がりを確認できる。それぞれの施策の関係はさらに検討を加える必要性があるが、ともかくも現段階では、こうした取り組みを、直接、住民を拘束する施策として整理することが可能である。 なお当該年度の研究結果の公表に関しては、公表媒体等、現在のところ調整中である。
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