パルミラがローマ帝国内で顕著な役割を果たすようになるのは、260年にローマ皇帝ウァレリアヌスが、ササン朝ペルシアの王シャープール一世の捕虜になり、ローマ帝国の東方諸属州が大混乱に陥った時のことである。この時、領内に帰還するペルシア軍を追撃し、ウァレリアヌス帝を取り返すには至らなかったにせよ、大打撃を与えたのが、オダエナトゥスを指導者に戴くパルミラであった。オダエナトゥスは、翌261年には、西方に残っていたガリエヌス帝の命を受け、ウァレリアヌス捕囚後、東方で帝位を簒奪していたクイエトゥスとその近衛長官バリスタを倒し、この功績ゆえに同帝によって全東方諸属州の支配権を委ねられたと伝えられている。さらに、オダエナトゥスは、262年にはペルシアに侵攻し、その首邑クテシフォンに迫り、その4年後にも再びペルシア領内に攻勢をかけ、事実上の東方におけるローマ皇帝のごとき役割を果たしたのであった。オダエナトゥス自身は、2度目のペルシア遠征から帰還して後の267/268年に何らかの事情で暗殺され、後をその妻であったゼノビアが実質的に引き継ぐ。 周知のように、ゼノビアは、やがて、ローマ帝国に対して積極的な攻勢に出、その息子ウァバラトゥスとともに帝号を称したが、272年には、アウレリアヌス帝に敗れ、パルミラはその歴史上の役割を終えることになるのである。 粗略には、このような形の軌跡をパルミラは3世紀の一時期にローマ帝国内で辿ったわけであるが、当然のことながら、ことを細かく突き詰めるならば、この軌跡の中にもさまざまな問題が含まれている。本年度は、そのうちのひとつの問題を取り上げ、考察した。それは、オダエナトゥスの経歴に関する問題である。具体的には、オダエナトゥスが、ローマ帝国の官制の中でどのような地位、立場にあって、あの既述の行動をとっていたのか、この点を明らかにしようと試みたのである。彼の経歴については諸説あり、近年、活発な論争の対象になっている。そこで、関係するギリシア語、パルミラ語史料を検討した。 結論的には、パルミラ語史料に刻まれたオダエナトゥスの経歴は、彼のローマ帝国官制上の位置を知るには、役立たないこと、したがってギリシア語史料に基づいて専ら考察すべきであるという考えに至った。
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