京都大学構内遺跡でのボーリング調査による粒度分析によって、京都白川の弥生時代前期末の土石流は、複数の地点で、土石流全体としては流れが弱まっていきながらもその過程では流れの強弱を繰り返していたと思われることが確認できた。また、発掘調査によって、この土石流について、(1)本流の幅が100m前後に及ぶ地点があること、(2)土石流直前には昆虫などが生息できるほどには水が引いて多少とも安定した瞬間があったと思われること、(3)大きくは2波に別れること、以上の3点を新たに指摘できた。これらの成果は、先史時代における災害予測の存否を推測させる手がかりとなろう。 しかし、この白川の大規模土石流の影響は、合流する鴨川流域では河川氾濫の規模としては大きくはなく、さらに下流の淀川では、今年度におこなった既往報告書の悉皆調査的検討では、弥生前期末に洪水を指摘できるような遺跡をほとんど全く確認できなかった。ただし京都盆地西半では、白川扇状地と同様に縄文時代晩期および弥生時代前期末頃の2時期の土砂移動が先学によって確認されており、従って、京都盆地からの流水が淀川一筋に収斂する直前に位置する巨椋池が天然の出水調節弁として機能していたことが、あらためてうかがえた。巨椋池周辺には先史遺跡が非常に少なく、このことは、本研究対象地域における他の地域での、実際の遺跡分布を検討するうえで重要な留意点を提供してくれる。 なお、京都大学構内遺跡のように大規模土砂移動の平面分布やそれ以前の旧地形に関するデータが詳細に把握できる遺跡はあまりないことに加えて、上流域が花闇岩地盤の平野部においては中小規模の土砂移動は過去数千年の時間幅でみれば頻発していると言えることから、先史時代の土砂移動現象を現代の地形の現地踏査によって推測することは、残念ながら、困難な場合がほとんどであるという見通しが立った。
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