研究最終年度にあたり、研究成果の発表に重点を置いた。2008年6月に中国でおこなわれたSociety for East Asian Archaeology 4^<TH> Worldwide Conferenceと大阪歴史学会考古部会鱒会において研究発表をおこなった。また、2009年2月には韓国国立扶余文化財研究所にて研究報告をおこなった。 本研究では、古代東アジアにおける火葬は、中国から遣唐使や僧侶を通して韓半島や日本へ火葬が伝播し、導入されたものであり、その伝播には、(1)仏教を基層とした思想的背景、(2)「喪葬令」などの律令制度や都城制と密接に関わる政治・社会的背景、という大きく二つの背景があったことを見出した。 日本では、律令制の受容や都城の建設など、律令画家の建設と深く関わって天皇・貴族層に火葬が採用され、喪葬令を背景に都城の葬送地へ特徴的な墓構造を持つ墓が作られた。また、それ以外の階層へは、僧侶を介在として、共通した墓構造の火葬墓が作られるようになったが、在地における火葬の採用・不採用の選択は在地氏族の性格など、在地の事情が強く関わっていたと考える。 新羅では、骨蔵器の形態などからみて日本の火葬墓との直接的な関係は見出しがたいが、支配者層に火葬が受容されたこと、王京周辺への造墓、王京と地方とでの墓構造の差異などの様相は日本と類似することを見出した。新羅の火葬墓も日本と同じく中国を範とする律令制度の受容が関係して導入されたものと考えた。 百済については、従来火葬墓と考えられてきた扶余周辺出土資料の調査の結果、百済火葬墓の存在そのものについて再検討する必要がでてきた。これは、今後の課題である。 本研究により、日本古代律令国家の特質解明に、墓制研究からのアプローチが十分有効であることを示したといえる。ただし、本研究は対象を「火葬」に特化したものであり、その他の葬制資料の検討や、他の文化要素などとの比較による相対化が不十分である。今後の課題としたい。
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