今年度も、唐の伝奇小説と平安朝の物語の背後にある社会構造の解明に引き続き取り組んだが、具体的な作業としては、昨年度に十分に行えなかった、文学史料以外の一次史料(古文書、古記録、史書等)と関連する二次文献の解釈を中心に進めた。 伝奇小説が隆盛を迎える唐代後期も、その影響を受けた物語が成立する平安中期も、地方で反乱が絶えず、貴族制や流通経済のあり方等が大きく変動した時代であった。しかし、各種の史料は、その変動のあり方、およびそうした変動を当時いかなる人がいかに捉えたか、という点において、両国間に決定的な相違があることを、はっきりと示している。唐において社会変動をいちはやく捉えたのは、政界でも力を持ち得る科挙官僚やこれを目指す者達であり、彼らは、従来の身分秩序と結び付いた価値観を崩そうとする下からの動きを積極的にくみ上げ、門閥貴族と違って、従来の価値観に大胆に挑戦しようとした。その際、新たな考え方を支えるために、史書や経書等の古典を頻りに引用することは、顕著な特徴といえる。これに対し、平安中期の日本の社会変動を鋭く意識したのは、政治的には弱体な中下級貴族の文人達や、その娘を中心とする宮廷の女房達であった。但し、彼(女)らは、科挙官僚と異なり、ダイナミックな社会変動に積極的に関わろうとはせず、それとは一見切り離されている宮廷社会内の事柄に敢えて関心を集中することが多い。特に文人貴族の場合には、知的基盤の中核に依然として経史等の中国の古典があるにもかかわらず、それを現実批判のために意図的に用いることが乏しい点も、科挙官僚との際立った相違である。このように両国の知識人の、社会における位置付けと、現実社会と古典に対する態度の相違は、彼(女)らがそれぞれの社会構造に対して与えた影響にも有意な差異を齎したと考えられる。
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