本研究においては、インドネシアバリ州ギャニアール県ウブドゥ郡の私立美術高校の誕生から死までを学校誌として描くことを試みた。その歴史的過程で、学校と地域の関係性がいかに変容したのかを明らかにした。私立美術高校ウブドゥ校は、地域の画家達の発案により、チョッコルダ王家の関わる財団のもとで設立された。一方、国立美術高校デンパサール校は、ジョクジャカルタの芸術学院ASRIで学んだカジェン女史の発案で設立された。その両者は、合併と分離を繰り返す過程で、バリの文化芸術を多方面から支える人材を輩出した。国際的芸術家、文化庁長官、アートセンター長、芸術家協会会長、芸術大学の教員、小中高の美術教員など、その卒業生らはお互いに連携を保ち、芸術村ウブドゥのアイデンティティを活性化している。バリ州の美術高校は、地域の画家、王族、役人、教員、観光客、海外からの芸術家、文化人類学者、インドネシア国家のイデオロギー、バリ州の文化政策との関係性のもとで、学びの場を提供してきた。 しかし、アジア通貨危機以降、私立美術高校の生徒は減少をはじめ、本研究が終了した年度に、廃校となった。その背景には、学校、地域、国家、市場の関係性の変容が存在する。美術高校の誕生から衰退までを五世代に渡り、学校誌として描くことで、公教育とは何か? 地域における学習はどうあるべきか? という問いを提起した。学校は廃校となったが、いかにして地域で学びの場を活性化し、学ぶべき知と技と徳をどう伝えるのか? という問いを探求するのが今後の課題である。
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