2006年度は、認知症への対処から見えてくる現代の老いについて考察するため、第一に文献研究を、第二に、複数の認知症患者の家族会において介護家族および会世話人への聞き取りと、会の活動の参与観察を実施した。 認知症を患って生きることが、「よい生」と対置される、ないし「生活の質が低い状態」と、ひいては「(よい)死の選択」と結びつけて語られる記述を見つけることは難しくない。「死の選択」の場面における高齢者は、「自己決定」を下す主体として描かれる。この過程は「死の医療化」の拒絶、医療からの死の解放・奪還を含意しており、選択・決定を通じて主体としての「個」が際立つ場面である。 他方、活動的な高齢者像が共感を受ける中で、ある衰退が「通常の老い」であるか「病的な老い」であるかを峻別しようとするまなざしはより鋭くなり、後者をいち早く摘出することで、「老い」は次々に医療へと投入されている。認知症をめぐる老いの意識も、その過程にある。認知症は、「高齢者の病気」「歳をとることで成ってしまう姿」として老いと関連づけられてきた。またそのことは、若年認知症の患者が周囲から「まだ若いのに(認知症のわけがない)」という対応を受けることからも言える。しかし、「病気」であることが知られるようになる中で、通常の老いとは切り離されつつもある。20〜30年以上前に認知症高齢者の介護を担った人々が、「歳をとればこんなもの」と、老いの一形態として認知症を捉えていたのとは対照的なまなざしであり、ある種の医療化の進行としてとらえることができる。この「老いの医療化」の場面では、「病的な老い」として分類された衰退が「医療の範囲のもの」として日常の共同体から放逐される結果、「死の医療化」の揚面とは逆に、老いが「個」へと帰されることになる。これは実際の介護現場において、「家族による介護の抱え込み」として現象していると見ることが出来る。
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