研究課題/領域番号 |
18H01934
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研究機関 | 埼玉大学 |
研究代表者 |
山口 祥一 埼玉大学, 理工学研究科, 教授 (60250239)
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研究分担者 |
野嶋 優妃 埼玉大学, 理工学研究科, 助教 (90756404)
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研究期間 (年度) |
2018-04-01 – 2022-03-31
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キーワード | 氷Ih / 水素の位置の無秩序性 / 残余エントロピー / 和周波発生 / OH伸縮振動 / 振動スペクトル / 表面緩和 / 水分子の上下の配向 |
研究実績の概要 |
バルクの氷Ihの分子レベルの構造とダイナミクスは既によく理解されているが,その表面の構造は依然として解明されてない.例えば,バルクの氷Ihの水素の位置の無秩序性はNA kB ln(3/2) = 3.4 J K-1 mol-1の残余エントロピーをもたらすことが80年以上前から分かっているが,氷Ihの表面では水素の位置の(無)秩序性がどうなっているのか,全く分かっていなかった.これまで,氷Ihの構造とダイナミクスを研究するために様々な実験手法が用いられてきた.とりわけ,X線,電子線,中性子による各種回折測定は,原子座標を精密に決定できる優れた手法であるが,充分な選択性をもって表面を測定することはできない.近年の和周波発生(SFG)振動分光の発展によって,数分子程度の厚みの表面を選択的に測定することが可能となっている.それによって,水分子のOH伸縮振動のスペクトルから氷表面の水素秩序と水素結合構造を実験的に解明することができる.OH伸縮領域の振動スペクトルは,分子間および分子内振動カップリングによって複雑化している.そのような振動スペクトルの理論的な再現のために各種計算手法が用いられている.特に分子動力学(MD)シミュレーションは氷Ihのバルクおよび表面に適用され,微視的構造について貴重な知見がもたらされている.しかしながら,氷Ihではどのように表面再構成または表面緩和が起きるのかをMDシミュレーションによって予測することは極めて困難である.そこで,氷表面の構造を解明するには,信頼できる実験データに基づいて,それを再現できる尤もらしい理論モデルを構築することが現時点で最善であると我々は考えた.今回は,ヘテロダイン検出SFG分光と理論モデルを用いて,氷Ih表面の水分子の“上下”の配向を決定し,水素秩序についての知見を得ることに世界で初めて成功した.
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
順調な進展は以下の発見から明らかである.まず,氷表面のOH伸縮領域の振動スペクトルが,同位体希釈とともに顕著に幅広くなった.ここで同位体希釈とは重水(D2O)によって軽水(H2O)の濃度を減少させることである.純H2Oの|χ(2)|2スペクトルの3090 cm-1の鋭いバンドはOH伸縮によるものであり,形状は既報とよく一致した.同位体希釈とともに,このバンドは強度が減少し高波数シフトした.強度の減少はOH濃度の減少によるものであり,高波数シフトは振動カップリングの低減に由来する.|χ(2)|2スペクトルでは同位体希釈とともにバンド幅が広がる様子がはっきりと見て取れた.バルク氷Ihのラマンスペクトルは,純H2Oでは3081 cm-1に鋭いピークを示しているが,OH濃度67%では幅広いスペクトルに変わり,さらに20%,3%とOH濃度を下げると再び鋭いピークが3268 cm-1に現れる.バルク氷IhのIRスペクトルは,同位体希釈すると一旦はわずかに幅広くなり,その後は単調に先鋭化している.SFG,ラマン,IRの各スペクトルが全く異なる同位体希釈依存性を示していることは,SFGがバルクではなく表面に由来していることを明確に意味する.同位体希釈とともに幅が広くなるという|χ(2)|2スペクトルの特異な振る舞いは,ヘテロダイン検出SFGによって得られる複素χ(2)スペクトルの解析を通してさらに詳細に理解することができた.純H2Oの氷IhのIm χ(2)スペクトルには,3090 cm-1に正の強いバンド,3200 cm-1に負の幅広いバンドが見られる.同位体希釈によって,正のバンドは強度が減少し,高波数シフトし,幅が広くなった.これらの特徴は,虚部と実部のグローバルフィットによって定量化できた.
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今後の研究の推進方策 |
これまでに,氷IhのIm χ(2)スペクトルを解釈して表面構造を決定するために理論モデルを構築した.我々はスペクトルシミュレーションを行うにあたって,分子間振動カップリングを遷移双極子カップリング(TDC)機構によって取り扱った.そのようにして得られた理論スペクトルは,実験結果を定量的によく再現した.このシミュレーションは"H-up"の水素秩序構造に基づいている.OH濃度20%のIm χ(2)スペクトルの広いバンド幅を理論的に再現するには,モデルハミルトニアンの対角項に100 cm-1の不均一広がりに相当する無秩序性を導入する必要があった.同じOH濃度のラマン,IRスペクトルのバンド幅はずっと狭いことから,この不均一広がりは表面特異的と言える.バンド幅だけでなく,ピーク波数,ピーク高さ,バンド面積についても実験と理論は良く一致しており,今回のH-upの水素秩序構造に基づく理論モデルを支持する結果となった.表面とバルクの振動スペクトルの同位体希釈依存性の違いは,(i) 表面の方が不均一広がりが大きいこと,(ii) 振動の非局在化とそれによるexchange narrowingが水素秩序構造の表面でより効率的に起こること,の2つに帰せられた.今回,氷Ihの表面はH-upの水素秩序構造を有することが分かったが,なぜそのような秩序が発生するのかは明らかでない.72 K以下のバルクでは,水素無秩序構造の氷Ihよりも水素秩序構造の氷XIの方が安定であることが知られているが,IhからXIへの相転移は欠陥の導入なしでは速度論的に不可能である.表面では水素結合ネットワークが切断され,水分子の並進回転の自由度がバルクよりも大きく,フラストレーションがより小さい.それによって表面では水素秩序構造への“相転移”が速度論的に可能となっているかもしれない.これを明らかにすることが今後の重要課題である.
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