令和2年度の研究は、1) カイロ・ゲニザの医学関連文書に記された医療実践と、2) カイロ・ゲニザのユダヤ教カラーム文献写本という2つの主題が対象となった。 まず1) カイロ・ゲニザの医学関連文書に記された医療実践についての研究実績をまとめる。まずカイロ・ゲニザから、10~13世紀の間に作成された書簡・ノート・処方箋を収集し、それらに記されている医者によって実際に行われた治療を復元した。次に、どのようにして薬品の処方が診断に基づいて、かつ四性質(熱・冷・湿・乾)などに代表される理論的知識に則って、導出されたのかについて考察した。その結果、薬品の処方は同時代のイブン・スィーナーの『医学典範』などの権威的な医学書で指示されている処方とは異なるものの、診断結果と理論的知識に基づいていることが明らかとなった。このことは、中世アラビア医学の医療実践においては実用性が重視されたため、実際の治療は医学理論から乖離していたという通説を覆すものである。この研究成果は、Bulletin of the History of Medicineに掲載される論文でまとめられた。 次に、2) カイロ・ゲニザのユダヤ教カラーム文献写本に関する研究成果についてまとめる。カラームの学と呼ばれる学問は「イスラーム神学」と翻訳されるが、中世アラビア語圏のユダヤ教にも影響を与えた。カラームの学の本質は一種の言語哲学であり、アラビア語の文法構造に内在する存在論的含意を展開させた学問である。従って、アラビア語話者のユダヤ教徒にも、カラームの学はユダヤ教を理解する際の指針となった。カイロ・ゲニザのユダヤ教カラーム文献には、「我々ユダヤ教徒はヘブライ語を忘却してしまったため、アラビア語を経由せざるを得ない」という記述が見られる。このことから、アラビア語という言語が真理の探究において重要であったことが推測される。
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