前年度における人情本の序文と本文の字体の比較研究によって、近世の後期には、実用的な字体と装飾的な字体の分化が、版本において見られるようになっていたことが明らかになった。人情本においては、この分化は完成されているようであったが、どのような過程を経て分化に至ったのか。本年度は人情本の源流である洒落本を調査することによって、それを明らかにすることを試みた。洒落本について、人情本の調査と同様に、序文の字体と本文の字体の比較を行った。その結果、序文に使用される字体数が本文に使用される字体数を下回る傾向が見られた。序文が上回る作品も存在したが、時代が下るに連れて見られるという訳ではなく、洒落本においてはまだ分化の過渡期の状態であると考えられた。ただ字体が収斂する中、明らかに序文には本文とは異なる字体を使用する意識が見受けられた。 また本研究においては、近世近代の表記の多様性という観点から、「あて字」についても考察を行っている。前年度は「あて字」データベースの基礎の構築を行い、そこから人情本に見られる「あて字」を抽出した。これらは現在の標準的な漢字表記に照らし合わせると「あて字」と見なせるが、複数の作者によって使用されているものもあり、当時においては熟字訓のように用いられていた可能性があった。本年度はその可能性を検証することにした。検証には日本語歴史コーパス(CHJ)の人情本コーパスを用い、複数の人情本において使用が確認されている「あて字」について、現在一般的に用いられている「通常表記」 との出現回数の比較を行った。さらに洒落本および雑誌『太陽』のコーパスを用いて同様の調査を行った。その結果、人情本で熟字訓のように使われていた「あて字」は、洒落本には見られず、『太陽』に見られても使用頻度が低下していた。
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