戦後、労働の理想化を批判したJ. ピーパーは、アリストテレスの閑暇(スコレー)概念に依拠して、宗教的な観想(Kontemplation)こそ人生に真のゆとりを与えるものだと論じた。『ニコマコス倫理学』第10巻では、閑暇における哲学的観想(テオーリアー)が究極の幸福であり、徳に基づく公共的実践は第二の幸福であるとされるが、『政治学』第7 ― 8巻では観想への明示的な言及がなく、そこから、ある論者は、極めて少数の市民が行う観想ではなく、公共的実践こそがスコレーの内実であるとした。このような解釈上の対立は調停可能である。アリストテレスによれば、市民は、有事には戦争に従軍し、平時には家政を執事に任せて「自らは政治的行為や哲学を行う」。平時に市民に必要なのは節制や正義の徳と「哲学」である(『政治学』第7巻第15章)。ここの「哲学」の意味に関してはいくつかの解釈(観想、教養、思慮)があるが、いずれも問題を含む。この語は「知的探究能力」を意味すると解釈すれば、スコレーにおける哲学の遂行がすべての市民に開かれることになる。『政治学』では倫理学や教育学なども哲学と呼ばれる。市民は様々な講義に列席して各領域における諸原理の学習と探究に励み、理論と実践の両面にわたる理性を錬磨する。これに加えて、祭礼や音楽や演劇などの享受がスコレーの内実をなす。 現代のレジャー哲学においてもアリストテレスのスコレー概念が援用されている。J. BouwerとM. van Leeuwenによれば、現代のレジャー実践において人々は心に残る経験を追求しているが、それに留まらず、すべての経験を意味のある仕方で統合したいと考えている。それには人生の全体的意味についての見識が必要となる。そこには、快楽主義的な幸福概念ではなく、自己実現と卓越性を核とするアリストテレス的なエウダイモニア概念が求められる。
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