最終年度となる2020年度には、以下の二つの側面から研究を遂行した。 第一に、ラカンの精神分析的情動概念を哲学言説との交差という観点から明確化する取り組みを行った。この取り組みはさらに以下の二つの具体的な研究を通じて実施された。1)哲学者ミシェル・アンリの精神分析研究である『精神分析の系譜』の読解、およびそこで提示された現象学的情動・触発論の整理を行い、これをラカンの理論と比較検討した。それによりアンリ哲学の「自己触発」ないし「内在的情動性」と対照的に、ラカンの情動性の概念化において特に他性という隔たりの契機が重要な位置を担うことが確認された。2)「非理性的間隙」という題を持つラカンの一九三〇年頃の詩作に、A.コイレ、G.ギュルビッチなどによってフランスに導入されたドイツ観念論、否定神学思想の影響が認められることを、文献を通じて確認した。また詩作の背景となるF.アルキエとの交流についても参照し、両者の芸術論における上記議論の含意を検討した。以上の研究を通じて、ラカンの情動論において他性や差異の問題が有する重要性の背景とその詳細が確認された。 第二に、現代の情動的ケアの制度化に関する整理として、今般のコロナ流行という現状を踏まえつつ、現代社会においてショックがいかに管理されるかについて検討した。ここでは特にフーコーの権力論、B.マッスミの「存在権力」論、B.ハンの「精神政治」論を参照しつつ、トラウマ的介入が、ケア体制のもとでワクチンのように一般化されつつ、常態の形成に参与している様を確認した。またそのような全体的秩序の形成がその境界において暴力性を作動させる仕方について、精神分析的な視点に依拠しつつ考察を試みた。以上から、全体的秩序に回収されないケア領域について新たに検討するという課題が導かれた。
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