最終年度にあたる本年度は、ユダヤ人、アラブ人がキリスト教ヨーロッパから排除されていく歴史を踏まえながら、そのなかで「内面の自由」をどのように捉えることができるのか、また同じ歴史がいかにしてヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅とパレスチナにおける災厄に行き着くのか、前年度までの成果を踏まえて考察を進めた。 この点でとくに着目したのが、パウル・ツェランとマルティン・ハイデガーの関係性である。広く知られているように、ツェランはホロコーストを生き延びた詩人であり、ハイデガーはナチスに加担した哲学者だった。両者の対面時に、ツェランが「謝罪」を求めたの対し、ハイデガーは「沈黙」をもって答えたと言われている。これが引き金となってツェランは自死を選んだ、という説もある。だが、両者が計3回対面を果たしていること、またその間にツェランがイスラエルに赴いていること、そして現地でハイデガー的な語彙を用いた挨拶文を残していることを考え合わせてみると、事態はそれほど単純ではないことが分かる。両者のあいだでは「死、異端、主権」のすべてが重要な契機となっており、そのことをレコンキスタ以降のヨーロッパにおける反ユダヤ主義の歴史を踏まえて明らかにした。また詩人の自死には、彼なりの倫理と責任が賭けられていたのかもしれない点も示した。 このとき、ツェランの自死を究極的な「内面の自由」の発露ないし完成とみなすこともできるが、「存在」ではなく「移ろい」を描くモンテーニュ的な視点からすると、そうした考え方にはやはりどこかまだ足りないところがある。つまりもしツェランが今日まで生き延びていたらどう考えるだろうかと問うことにも、一定の意義が認められるはずである。そこで現在のイスラエル/パレスチナ情勢を踏まえつつ、いかにして「内面の自由」を保つべきか、エルサレムで見た光景を題材とするツェラン最晩年の詩をもとに考察し、本研究の総決算とした。
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