「日本文化講義」は昭和11 (1936)年7月22日に文部省思想局が帝国大学、官立大学、高等学校、専門学校、実業専門学校などの文部省直轄諸学校のみならず私立の大学、高等学校、専門学校に対しても実施に関する通牒を発信し、国家予算により知識人や実際家を動員し各校に必修科目に準じての実施を求めた「国策講義」「官製講義」とも呼ぶべき講義である。 最終年度に当たる当年度はまず日本文化講義に関する実施事例を増やすべくこれまでの大学アーカイブズ等での調査で収集した資料とともに様々な学生新聞(復刻版やWeb公開されたものも含む)にも当たり事例の収集を行い、Microsoft Excelのファイルへの入力作業を行った。その結果、実施事例を今なお収集中という事情もあり、現時点で公表する段階には至っていないが、昭和11~20(1936~1945)年度において文部省直轄諸学校における2370件の実施事例(富山県立高等学校、浪速府立高等学校などの一部の公立諸学校を含む)と私立学校における216件の日本文化講義の実施事例を確認し、これらの実施事例を収載した「日本文化講義実施事例データベース」を試作した。 また、日本音楽や東洋音楽の開拓的研究者であり昭和56(1981)年には文化功労者に顕彰され、著書、論文、講演録、随想など膨大な著作を残しながら没後40年近くが経過した今でもなお十分に研究が行われているとは言えない田辺尚雄についてその戦時期の著作を中心に日本精神論という視点から田辺の日本音楽論の展開を辿るとともにその位置づけを考えてみた。その上で田辺が戦時期に高等教育機関で行った日本文化講義について実施事例資料に当たりつつ内容の考察を行い、田辺が日本文化講義に対しどのように向き合っていたかを明らかにした。
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