研究課題/領域番号 |
18K00148
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研究機関 | 昭和音楽大学 |
研究代表者 |
酒井 健太郎 昭和音楽大学, オペラ研究所, 准教授 (60460268)
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研究期間 (年度) |
2018-04-01 – 2022-03-31
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キーワード | 書簡 / 人的ネットワーク / 呼び屋 / プロモーター / 柳澤健 |
研究実績の概要 |
プリングスハイムは、特に戦後の日本において日本とヨーロッパの音楽家の「架け橋」になったことが推定されるが、その実態はいまだはっきりしない。彼は1951年から72年に日本を活動拠点とし、海外、特にヨーロッパの音楽家・関係者に幅広いネットワークを持ち、頻繁に書簡のやりとりをしていた。この書簡が大量に残されており、それを調査・分析することでプリングスハイムがどのようにして「架け橋」としての役割を果たしたか明らかにするのが本研究の目的である。ところが、新型コロナウイルス感染症の拡大のために海外での資料調査ができなくなった。そこで、国内で実施できる研究トピックに切り替えた。具体的には以下の2つである。 【戦後日本の「呼び屋」「音楽プロモーター」に関する調査】 プリングスハイムの戦後の活動の前提条件(環境)の一つである、日本のいわゆる「呼び屋」「音楽プロモーター」の活動の歴史を二次文献をもとに整理した。その一環として、それに関する書籍の書評を執筆・発表した。 【プリングスハイムと関係があった日本の人物について調査】 プリングスハイムが日本の音楽家・関係者にどのようなネットワークを有していたか明らかになっていない。具体的には直接の接点があったことが明らかになっている宮城道雄(と吉田晴風)、柳澤健らに注目して、文献調査を実施した。このうち柳澤は外交官・詩人・文化人など多面的な活動をした人物である。柳澤は、1950年発表のプリングスハイム評伝の著者である加藤子明と師弟のような関係にあったとみられ、また1951年のプリングスハイム謝恩音楽祭(なるものが開かれたのだが詳細不明)の主宰者を柳澤の盟友とも言える田中耕太郎が務めた。こうしたことから柳澤がプリングスハイムの1951年の来日に関与していたことが推測される。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
3: やや遅れている
理由
当初の研究計画からすると研究は「遅れている」ということになるが、研究トピックを切り替えて実施したことにより、総体としては本研究の進捗は「やや遅れている」。 【資料等の制約】 新型コロナウイルス感染症が拡大したことにより、当初計画していた海外での一次資料の調査ができなかった。そこで、先述のように研究トピックを切り替え、国内での資料調査を進めたが、国内でも感染症拡大による研究活動に対する制約は大きく、思うような資料探索・収集ができなかった。 【時間的な制約】 新型コロナウイルス感染症の拡大により、教学の環境が大きく変わった。これに対応するために想定以上のエフォートを割かざるを得なくなり、本研究に振り向ける エフォートを削らざるを得なかった。
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今後の研究の推進方策 |
新型コロナウイルス感染症の影響が収まり次第、海外での資料調査の実施を含めて改めて研究計画を策定する。 そうなるまでは、プリングスハイムと関係があった日本の人物について調査を継続する。 ここまでの計画の遅れを取り戻すことは困難であるにしても、これ以上の遅れが生じないよう努める。
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次年度使用額が生じた理由 |
海外での文献調査を計画していたが、新型コロナウイルス感染症の拡大のためこれを実施できなかった。そのため次年度使用額が生じた。 海外での文献調査が可能になり次第、次年度使用額を用いた調査をおこなう。それが可能な状況にならない場合は、研究期間の延長を含め、使用計画を検討する。
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