研究課題/領域番号 |
18K00221
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研究機関 | 早稲田大学 |
研究代表者 |
奥間 政作 早稲田大学, 文学学術院, 講師(任期付) (40711213)
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研究期間 (年度) |
2018-04-01 – 2021-03-31
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キーワード | 沖縄 / 平和 / 慰霊碑 / 造形 |
研究実績の概要 |
戦後におけるひめゆり学徒隊の活動は、1949(昭和24)年に石野徑一郎が雑誌『令女界』に「ひめゆりの塔」を発表し、その2年後、彼女等の引率教師であった仲宗根政善が『沖縄の悲劇-姫百合の塔をめぐる人々の手記』を出版して以降、日本本土でもよく知られるようになった。その後、こうした作品は単行本化され、重版を繰り返し現在に至っている。また、今井正によって1952(昭和27)年に映画化された「ひめゆりの塔」は、その後も多くの映画化を経て、テレビドラマ等でも繰り返し制作されたことが示すように、映像によっても彼女達の物語は広く知られるようになった。 こうした「ひめゆり」の物語については、これまで「慰霊」や「戦争の表象」といった観点からの研究が数多くなされてきた。しかし、彼女達の多くが最後を遂げた糸満市伊原に立つ「ひめゆりの塔」の造型的な方面からの考察はあまりなされていない。本研究では、「ひめゆりの塔」が最初に設置された1946(昭和21)年から現在の形態に落ち着く1957(昭和32)年までに見られる塔の造型面の変遷を調査した。当初ひめゆり学徒隊の遺族であった金城和信らによって石造りの簡素な塔(現存)が設置された後、沖縄のキリスト教関係者によって十字架を備えた納骨堂(一部現存)が建立され、沖縄の美術家玉那覇正吉によって「乙女の像」(現存せず)が設置されるなど、塔は数度の変遷を遂げた後、現在の形に落ち着くこととなる。現在「ひめゆりの塔」は「平和」を訴えるモニュメントとしての役割を果たしているように思えるが、造形の変遷からすれば当初から計画的に建立しようとしたものではなく、米軍統治下に置かれた沖縄の戦後の社会状況によってその造形を変化させてきたことが判明した。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
3: やや遅れている
理由
ひめゆりの塔をはじめとする沖縄の慰霊碑についての調査は順調に進んでいるが、戦後の日本における「平和」を主題とする美術作品の調査については、当初の計画よりやや遅れているのが現状である。
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今後の研究の推進方策 |
2019年度は戦後の美術雑誌や展覧会目録等にみられる「平和」を主題とした作品の調査を継続して進めていく予定。また、サイパン等の慰霊碑についても今年度以降進めて行く予定。
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次年度使用額が生じた理由 |
当初予定していたRAや研究協力者の確保が難しく、また海外調査についても行えなかったため当初の予算を消化することができなかった。2019年度はこうした点を改善するようにする。
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