本年度は主として「安徳天皇潜幸伝承」について,陵墓参考地から考究した。安徳天皇の参考地は5箇所存在し,宮内庁が現在も管理している。山口県下関市阿弥陀町の「陵墓」指定は明治22年(1889)であり,それ以前の4箇所の指定とその後の1箇所の追加指定について,外池昇氏『天皇陵 「聖域」の歴史学』(2019)は「矛盾に満ちている」と述べている。陵墓確定は伊藤博文による対外政策的な判断から断行されたもので,各参考地の経緯とは別に考える必要がある。そこで,佐須陵墓参考地(長崎県対馬市厳原町久根田舎・明治16年)と宇倍野陵墓参考地(鳥取県鳥取市国府町岡益・明治28年)に関する文献調査,指定後に刊行された国分六之助『安徳天皇御事蹟論』(1892)・高山昇『安徳天皇潜幸遺蹟』(1898)・阿部茂八『安徳天皇御事蹟論』(1904)について検証をおこなった。詳細は「成果報告」に譲り,結論的な見通しを以下に示す。 陵墓は唯一の存在で,中央政府が「正」であり「公」として指定したが,それ以外を「参考地」として排除しない論理は,中央史壇と郷土史とが並立して「歴史」を語った状況と通じている。安徳天皇の死は「排除により齎された天皇の死」でなく「辺境に生き,その地で迎えた死」という歴史(伝承)として複数が存立した。それらは従来の御霊信仰に加え,安徳帝入水死を「国体の汚点」,「國體の精華は之が爲に破れたり」(前掲三書「序」)と主張する「国体思想」に支えられていたのである。つまり,外池氏が「矛盾」とした「参考地」は,中央と地方の二重規範により並立し得たと考えられるのである。 この他、鹿児島県三島村硫黄島の「開けずの箱」伝承(安徳帝遺物)について,伊加倉俊貞『鹿児島外史』(1885)の草稿本『薩摩逸史』(1872,西尾市岩瀬文庫蔵)を調査し,新出情報(石匣,神剣・古鏡・古璽)を得たので,別途「成果報告」にて公表する。
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