本研究は、連歌師里村紹巴の出座した連歌百韻および千句を整理し、紹巴の文芸活動について明らかにしようとするものである。今年度は紹巴を継いだ昌叱の千句「肥前島原松平文庫蔵『文禄五年九月四日千句』の翻刻と解説」(「聖徳大学大学院言語文化学会 言語文化研究」第19号、2021年12月)をまとめ、前年度まで発表した百韻・千句資料に、国立公文書館内閣文庫蔵『百韻連歌集』所収の百韻を新たに加えて報告書を作成した(2022年3月)。 室町末から近世初頭にかけて紹巴を取り巻く人々との文芸交流の様相を知ることも本研究の目的としていた。紹巴の百韻・千句を調査した結果、得た結論は次の通りである。紹巴は常に心前や昌叱といった近しい者たち数名と共に連歌会に参加し、百韻のうち合わせて四割近くを詠んでいたことがわかった。さらに、自分たちが句を詠むべき場所、そして句数、つまり分句を意識しており、彼らが座をコントロールして連歌会の迅速化をはかっていたと考えられる。どの場所の句を連歌師が詠むべきかという問題は、近世の俳諧における花の句や月の句の定座を成立させることに繋がった。紹巴たちが後に言う花や月の呼び出しの句を詠む場合も多く見られた。 紹巴自身の連歌の特徴としては、会席で誰もが理解できる句を詠むようにし、転じ方が曖昧な、連歌に堪能ではない者の句には、その句の内容を補足するといった詠みぶりが窺えた。前の句を引き立たせるように、関連する内容でより具体的な句を付ける手法も目立った。紹巴が連歌の当座性を重視し、自身の句の芸術性を求めるよりも連衆を楽しませるよう努めていたと言えるのである。 宗祇らと比較して、紹巴には自身の句集がないため、その評価は低く連歌文芸を終焉に導いた者という指摘がある。しかし、本研究でこの時代の連歌が俳諧に大きな影響を与えたことが判明した。調査を許可して下さった各研究機関に御礼を申し上げる。
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