本研究の目的は、まず従来の研究では看過されがちであったが日本の明治、大正期の文学に多大な影響を及ぼしてきた廉価版の英書小説に着目することにあった。具体的対象としたのは、十九世紀末以降、二十世紀初頭までの、特にイギリスおよびアメリカで大々的に売り出され、大流行した一連の廉価版洋書の小説群である。 最終年度の今年度は、特に尾崎紅葉の作品傾向に着目した。報告者は既に、紅葉の代表作とされるいくつかの中長編作品の構想や文体に、それらの廉価版の英書小説の影響が明らかに認められていることを確認してきたが、今年度の研究ではさらに、短編小説を通し見ることで、紅葉作品が素材の段階で与えられた影響を整理した。 例えば紅葉が明治二十四年に『読売新聞』紙上に三十回にわたって連載した『焼つぎ茶碗』(のち『袖時雨』と改題)は、一組の夫婦に焦点をあてたものであったが、その内容は、高い教育を受けた俊英の夫が、義理絡みで妻をめとったものの、妻がどうしても気に染まないというもので、いっぽうの妻もそうした夫の我身ゆえの苦衷を察して自らも苦悩しつつも如何ともしがたく苦しい日々を重ねている、というものである。この作品に通ずるテーマは、紅葉が読んでいたことが確認されているイギリスの廉価版の小説でCharlotte M. Brame 作品の複数に認められる。 これは直接の翻訳ではないが、その原書からモチーフを得たことは認識し得る。また同様に、モチーフの下敷きを廉価版洋書に求めたと思われる経緯は、その他の紅葉作品にも認められた。これらはエッセイとしてもまとめたが、そうした廉価版洋書小説の代表作であり、当時の日本にもたらされて人気を博したCharlotte M. Brame原作のDora Thone の翻訳も継続的に行った。
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