閉館した大阪能楽会館に置かれてあった本棚の内容については「能楽師大西家近世以前写本版本目録」として『関西大学東西学術研究所創立七〇周年記念論文集』で概略を紹介した。尤も大西家の隆盛は閑雪・亮太郎が活躍した明治・大正期である。能楽の総合誌の嚆矢は明治35年7月創刊の『能楽』で現在は復刻版もあり研究者はよく利用している。筆者は大西家文書を整理しているうちに大西家については『國諷』(明治39年7月創刊)に書かれているのではないかと踏んで、法政大学能楽研究所鴻山文庫所蔵のものを欠号があるとはいえ全てチェック出来た。はたして近畿周辺の能楽師の活動が拾えた。特に京都観世屋敷での謡初の折、世阿弥が将軍義満から拝領した槍とか糺河原勧進能の立て札が飾られていたという林喜右衛門の目撃談は学会に寄与し得るであろう。『観世文庫所蔵能楽資料解題目録』(令和3年・檜書店)は器物については触れていない。『國諷』の記事はやはり関西圏中心である。堺天神社で行われていたという狂言や吹田市の寺で行われていた謡会の記録も拾えた。バックナンバーは不明であるが、『國諷』の編集者は当初から元神戸新聞記者の泉泰知一人であったし、幸い、その御子孫も突き止められた。 茂山千五郎家では初めて青造酒之輔(8代久蔵英政)の遠忌を金剛能楽堂で催され、青家直系の子孫である敬祐氏をお誘いし、後日、千五郎氏宅で、文化11年英政書写の『秘書』を拝見することが出来た。 大蔵弥右衛門氏から連絡があり、神戸文学館での初公開善竹弥五郎の日記を拝見することも出来た。大蔵宗家文書の確認は中断しているが再開出来る準備は整った。 研究課題以外に西宮能楽研究会の「能「西宮」を謡おう!」が始まり手伝うことになり、原曲〈剣珠〉を考察するまでになった。故北岸祐吉氏の写真も入手出来たが、これも大阪能楽観賞会が演能の場として常に利用していた大阪能楽会館との御縁でもあった。
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