「暗黒の時代」と呼ばれるAD6~8世紀のアイルランドが各々独自の修道院・教育制度をもつ学術都市の 集合体であり、メロリング・カ ロリング朝ヨーロッパの先鋭的知の発信地だったことが歴史・考古学の観点から明らかになりつ つある。この知見はアイリッシュ・ルネサンス研究の死角を突 く問い、すなわちこの運動は何を規範とし、いかなる過去の文化 ・文芸を復権しようとしたのかという根本的課題に応えるものである。復興の牽引者W.B.イェ イツはこの修道院文化を規範に据 えて復興運動を構想したと措定されるからだ。本研究はこの仮説を作品分析と「免疫の詩学」という独自の方法を用いて 検 証する―全土をアジール(役/疫を免れた無縁所)である修道院を漂白する巡礼の学僧(無縁者)=媒体に形成された<水辺の巡礼ネットワーク=免疫システム>で結 ばれた一つの学術都市・共同体であるという独自の観点に立脚し検証した。 以上の命題を検証するため本年度は、8世紀末の初期ヴァイキングによるスコットランド・アイルランドの侵入経路を、これまで収集した文献・資料を手がかりに分析を試みた。結果、初期ヴァイキングはいずれもアイルランド系(聖コロンバ系)修道院をターゲットにしており、それは聖書の装飾写本を掠奪する目的であったことが確認できた。793年に始まるスコットランドの修道会、すなわちリンデスファーン修道院、795年のアイオナ、スカイ島、マン島の修道院の侵入、795年に始まるアイルランド修道院、すなわちアイルランド北東部のラスリン島(795年)、ダブリン沿岸のランベイ島(795年)、北西部のスライゴーの沿岸に浮かぶイニスムーレイ島(795年)、ゴールウェイの沿岸に位置するイニスヴォーフィン島(795年)、いずれも聖コロンバの影響下にある修道院である。これにより、逆説的に水辺の修道院のネットワークの外輪を辿ることができた。
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